主観なのでどうでもいいメモ。 過去に読み返した時に恥ずかしくなるのも一興かと思う所存で、意識高い系的意識の確認でもしてみる。

フロイト、ユング、アドラーなど、様々な人に影響を与えた心理学者もいる中、とりわけユングほど過去に色々と利用された人もいないと思う。 端的に言うと、ユングは集合的無意識の発見(もしくは認識)のその発表により、それがいろいろと利用されては誤解されたりしてあまり表立った功績がないような気がしないでもない。ちな、身近に知っている精神科の先生の本棚にもユングの本はない。 集合的無意識はありとあらゆる民族の共時性から発展したもので、それがタロットや星占いはたまたオカルトにまでありとあらゆるジャンルに発展していった。 それらスピリチュアルのジャンルは、一人の心理学の巨人から発生したものである、という札がつけば信頼性が増す、と思っている人が多いのも事実だろうけど、たちが悪いのはユングの弟子たちがそっち系に発展させていったことからも起因する。 かくいうユングはスピリチュアルを否定するどころか、曼荼羅や東洋思想に傾倒しているのでそういった面での進化(なのか)が発生したのは仕方がない。でも、ユングの名を語って信頼させようとするスピリチュアリズムはあまり感心しない。 (余談だが、アドラーはスピリチュアルを完全に否定しているが、「アドラーギルド」というサイトもある。しかも日本アドラー心理学会からリンクされている団体でもあるのがなんともかんとも。)

なぜ一部の人はスピリチュアルに走るのか。 答えは容易で、それは「救い」になるからという短絡的なものだろう。

興味深いことに家内の知っている人が「マインドブロックバスター」となるものの講習会などに参加した話を聞いていろいろと調べてみた。 深い内容はググれば出てくるので割愛するが、個人的に気づいた点は以下のものである。

-承認欲求のグルーピング、仲間意識 -脅威のアメーバブログ利用率 -スコトーマを外すための作法の一つにしか過ぎない

あらゆる宗教に参加している人にも言えることだが、人に承認されると自分はそこにいていいんだ、という感覚に陥り、容易にその輪から離れることはなくなり、その結果ファミリアが働き、マインドブロックバスターを詐欺であると扱う人に対して激しい攻撃性を持つ。 この攻撃性は支配欲から来るのではなく、秩序を乱す異分子の排斥を内外に表しているのではないだろうか。

また、アメーバブログの利用についてはそのブログサービスの特色からわかるが、利用している人の大半は女性で、社会的断絶を恐れる女性は横のつながりを利用すれば別の承認ビジネスの展開も容易いのではないか、という点と、マインドブロックバスターは営利目的の色が強いので、承認欲求が強い人は特にはまりやすい点にもある。そもそもブログをしている理由の一つに他者とのつながりを求めるケースが強い。そこで利用者に対して承認してあげることを理由に同サービスを教えるといった具合だろう(ちな、ワイがはてなダイアリー書いてるんわワイが無能やから自己研鑚せなあかんねんで)。

スコトーマを外すにはマインドブロックバスターは持ってこいだ。 マインドブロックバスターではジョハリの窓について言及しているが、スコトーマを外すのもマインドブロックバスターだったら楽にできる。楽にできる気がするだけかもしれない。ただ、そこでカタルシス効果が発生しているのも事実で、マインドブロックバスターによって人が変わったという報告もままある。

個人的には、マインドブロックバスターに関しては否定はしないが肯定もしない。 ただこれも新興宗教にも言えることだが、マインドブロックバスターに親や知人が関わってしまうと、自分やその周囲の人に対してダメージを与える可能性があることを認識する必要があるのではないだろうか。 周囲の理解は得られないケースが高いので、結局はマインドブロックバスター内での承認欲求が強化され、そのグループ外からは疎外される傾向にある気がする。

そもそもスコトーマを外すのであれば、多読するかメンターを付けるか社会にでるか客観的な視野をもつ努力をすればいい。 ただ、宗教やスピリチュアルによる救済のようなものからのカタルシス効果を他人に押し付けるのはどうしたものか、という感覚はある。マインドブロックバスターはスピリチュアルではないような意見もあるが、マインドブロックバスターのサイト内ではスピリチュアルビジネスと堂々と言っている。スピリチュアルであり、ビジネスである、というのがなんともはやという気がしないでもない。

本当に友達や自分を救済するのにはお金はかからないものではないだろうか。昔の人が言う「金の切れ目が縁の切れ目」は金言である。本当に救済するにはまず自己を宇宙や本能の視点だけではなく、自分の経験則からくる視点からでないと本当に人は変わることはできない。主観からくる客観からでしか人は変われない。「自分は変わった」という人ほど当てにはならない。本当に変わった人は無言で変わっているからとは個人的には現時点で思う。